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風俗情報

  エロ業界Q&A(17) Date: 2004-01-08 (Thu) 
【ご質問】
「昔、フィリピンパブにハマったことがありますが、ここ数年ほど御無沙汰しております。私の場合、ハマったといっても結婚まで至ったり、フィリピンまで行ったりとかというハマリ具合ではありませんでしたが、酒とタガログ語を少々覚えましたし、つらい時の救いになったことは間違いありません。先生のフィリピンパブの達人的アソビ方を教えて下さい」

【ご質問に対するお答え】
 フィリピン女性(とタイ女性)の社会問題が生じたのは、今から15年前の昭和63年に遡(さかのぼ)る。静岡のアパートで不法滞在のフィリピン女性が餓死をするという不幸な事件(4月)が起き、いわゆる「タコ部屋」の実態が明らかになった。タコ部屋というのは、監視付きの安アパートの1室に5人も10人も詰め込まれ、脱走すると暴力団から凄惨な暴行(リンチ)を受け、当時はフィリピンのみならず、タイ女性なども同じく、この過酷な環境に置かれていた。報道はこれを「じゃぱゆきさん」(戦前&戦中に中国などの娼館に売られていった貧しい日本娘たちを「から(=唐<から>=中国)ゆきさん」と呼んだが、それからなぞらえて作られた言葉)と称し、大久保や錦糸町は特にフィリピンパブのメッカであった・br>
 ちなみにいうと、当時は巨悪といわれていた中曽根政権下で、(今の小泉政権が郵政省の民営化を謳って大々的に出てきたのと驚くほど似ているが)「戦後政治の総決算」とかいって旧国鉄を民営化する一方、マル優制度の廃止や貯蓄課税(これは明らかに貯蓄の税金二重取りであった)及び、消費税を強行採決するなど、世に有事戦争不安を煽り、独裁及び戦争政党自民党の本性を剥き出しにした時期であった。

 その悪名高き中曽根政権が提唱した「国際化」の一環に、外国人留学生2万人受け入れ問題というのがあった。さらに日本の公立大学だけでは収容を賄(まかな)いきれないというわけで、外国語学校や専門学校の規制を緩和し、収容態勢を整えたわけである。

 歴史というのは実によくできていると思うのだが、この年の12月、株価が(その当時は)戦後最高といわれた3万円の大台に乗り、いわゆるバブル≠ェ始まった。金の余った企業には短大や私立学校の経営も認可され、多角経営の一環として、有象無象の短大が、そこかしこに出来た。2年前の山形「酒田短大事件」というのを憶えているだろうか。バブル崩壊と少子化で入学生徒が激減し経営に行き詰まった地方の短大は、平成3〜4年頃から大量に中国や韓国の留学生を受け入れ、国からの援助金をもらって放漫経営を続ける。酒田短大もその典型のような学校だった。その年の春休みが終わっても留学生徒200〜300人が上京したまま学校に戻らず、昨年、新宿歌舞伎町や都内で摘発された韓国エステの女性従業員の名かに、総計5〜6人ではあったが、この酒田短大の女子学生がいたというわけだ。こうしたことは中曽根政権のせいではないにしても(笑)、歴史や時代の根は、実に複雑に絡み合って「今」をかたち造るものである。

 もう1つの例を紹介すると、こちらはさらにいかがわしい話なのだが、今から9年前の平成6年2月、「法務省」の肝入りで「芸能人招聘(しょうへい)業者協会」という、外国人歌手やダンサーを招くプロモーターの団体組織が設立された。この団体の目的は、業者が入管に提出する書類を<有料>で、この団体から事前審査を受けておくと、入管窓口の審査がスムーズになるため、最盛期には約380業者が加盟していた。もちこの団体は、法務省の露骨な天下り団体であり、歴代の理事長はオール入国管理局長だった。

 なぜこういう話をしたかというと、この外招協に登録していた役記380業者はほとんどがフィリピンから歌手やダンサーを招くプロモーターだったのだ。ところが、翌年の平成7年1月、国連から批判を受けて、フィリピン政府は自国の歌手やダンサーと称する女性たちの出稼ぎを規制し始めた。出国の際には芸能人登録許可(ARB)が必要となり、多くのタレントの出国が遅れたり、ARB依然に同政府から発給された「在留資格証明書」が失効するなど、いわばフィリピンルートが(一時的に)絶たれた形となり、慌てた業者たちのうち大手8業者が、某代議士に80万円を献金したり、議員のパーティ券55万円分を買うなどした。その見返りに、この代議士はラモス大統領に親書を送ったり、外務省や法務省に働きかけ、「在留資格証明書」は3ヵ月の延長が認められ、フィリピンからの歌手やダンサーと称する女性たちの流入は、この件で混乱することがなかったといわれている(あくまでこれは噂で、この某代議士が誰なのか、筆者がのちの報道を見落としたか、疑惑のままで逮捕には至らなかったと思う。ちなみにこの代議士はパー券のことなどは「記憶にない」と述べ、芸招協には「名前を貸しただけで、秘書がやった」と述べた)。

 こうしたスキャンダルや法務省との不透明な癒着が暴かれて、芸招協は、平成8年秋に解散。たかがフィリピンパブとはいえ、元入管関係者が政界を巻き込んで……性風俗の「闇」はヤクザばかりでなく、こんな驚くべきことが生じたりもするという、一例なのだ。

 さらにこれはちょっと独断だが、フィリピンパブは前記のように昭和60年〜(フィリピン政府の)ARBまでを前期とすれば、この時期までは、ハッキリ言えば、同パブはモロ売春風俗としてその名が知れていたといっても過言ではない。さらに、これもちなみにいうと、その後、南米系(ブラジル、チリ、ペルー、メキシコ)の女性たちが流入してくると、売春業界(?)は一変。タイ女性たちと共に、この南米系の女性たちは一部はストリップ・ルートとして定着。一部は過激にも「街路に立つようになった」。今では過激でも珍しくもないこの売春SCENE、筆者のようなオジさんにはやっぱり衝撃だった。日本でも夜鷹がいたり遊郭などでも客引きや娼婦自身が格子窓から声をかけるといった方法は古くから伝統としてあったが、「街に女が立つ」というのは、終戦直後のパンパンやオンリー(米兵オンリーの街娼の意)以来のこと。もちろん戦後ズ〜ッと「立ちんぼ」の噂はあった(主に上野や浅草が有名だった。あと、今は古本屋街として有名だが、昔は一大ラブホ街だった神田など)が、日本の場合はどちらかというと店舗型性風俗の発展の方が顕著で、街娼は今でも(感覚としてだけだが)あまり馴染まないものだ。

 正直に書けば、従って「立ちんぼ」はあくまで週刊誌などのガセネタであって、実際にいたとしても昨今のような大々的なものではなく、まして、外国人の女性が堂々と(?)街中に立つなんて、戦後生まれとはいっても“赤線”廃止の昭和33年には、わずか9才だった筆者などには、外国人の街娼なんて想像もつかない存在といえる。もち、それでも筆者の持論をいえば、これが良くも悪くも「国際化」したということだとは思うが……。

 話を元に戻すと、前記した平成7年のARBから今に至るまでが、いわばフィリピンパブ・ブームの後期。今はどこの地方都市に行っても必ずフィリピンパブはあって、筆者の地元JR高円寺駅周辺でも、北口に『E』、南口に『G』と『M』、西武新宿線の野方駅南口にも『K』というフィリピンパブが点在している。彼女たちがダンサーとして入国しているスタイルは昔と変わらないし、日本のクラブ、パブ、キャバクラ等に比すれば同伴や指名のノルマが厳しく、共同生活で休みは週一日だけ、その際のいわゆる<ペナルティ>(同伴などはノルマを果たさないと1万円引かれる)も多く、その環境は相変わらず過酷(彼女たちの月給は平均8万円〜10万円で、ビザが切れて帰国する6ヵ月後にまとめてもらう。つまり彼女たちは1回の来日で約50万円〜60万円を手にするが、これはフィリピンでは半年から1年、地方では2〜3年分の生活費に該当するそうな)だが、以前ほど(特に売春がらみで)社会問題化することはなくなり、また働く彼女らは明るく、しかしその分(昔ほど)H系のお楽しみはかなり減ってしまったように感じられる。
 こういうことを念頭に置いて、さて、Q氏のご質問にあるように「達人的アソビ方」というと、正直、う〜! と頭を抱えてしまいます(笑い)。そこの風土から生まれた気質(大きく言えば国民性)は5年や10年で変わろうハズもなく、ある程度通いつめて親しくなればHも可能でしょうが、やはりそこまでいけば「結婚」とか「家族の面倒を見る」とかいった(つまり遊びではすまない)ある程度の責任というか負担というか、男にとって「覚悟」のいる状態になると思います。

 従って、ホレたハレたやH系ではなく、飲んで騒いでの楽しくていいお客さんになることが、達人といえば達人……ですか。当たり前過ぎて面白くも何ともありませんが(笑)。

 なお、日本のキャバクラは、9時(10時)以降〜ラストまでは40分5000〜6000円が相場ですが、フィリピンパブは指名すると、90分6000円といった、とんでもない安さです。客層は筆者の見る限り、やはり40代以上、中心層はおそらく50〜60歳代で、H云々というよりも、自分の娘のような可愛がり方をするタイプの人が多く、ちょうど言葉のわからない韓国エステがオジさんの回春風俗を担っているように、フィリピンパブもいい意味ではオジさんたちが安く遊べるオアシスのようになっています。Q氏のような「辛い時期」の安上がりなウサ晴らしとしては、この風俗も捨てたもんではないと思います。ただし、ハマリ過ぎると、少なくとも筆者には、ちょっとしんどい部分があります。あ…もち、嫌いというわけじゃないっスよ、ぜんぜん(笑)。

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