■ フーゾク探検記(4)-1 | Date: 2003-12-06 (Sat) |
「オバチャマの街、巣鴨のお座敷サロンで人妻の口に放出する」末森ケン・テレクラ探検人・55歳。
1「彩の国、埼玉の料亭で浴衣姿の女と寝る」
初めて和風ピンサロ「山城」に行ったのは10年前くらいだった。サラリーマンをリタイアしてテレクラに通いはじめた時である。
今ではテレクラのある町中からの公衆コールが多勢を占めているが、当時のテレクラコールは遠方とご近所が半々くらいだった。めんどくさがらずにこちらから出向く。腰痛もなく足腰も丈夫な時だったので、それをモットーとしていた。知らない町へ知らない女を探しに行く。なにかロマンチックに感じていた。実際に電車やバスにのってやっと会えたときの感激は、テレクラから歩いてすぐの場所で会う時とは比べにならなかった。たとえ女の容姿が悪くても、出会いのプロセスを踏んだ、という意識があったのだろう。
女もそんな男の心理は知っていたとみえ、今でも遠くのアポはブスかブタである。わざわざテレクラに戻るのもめんどくさい。せっかく会えたのだからこの女でいいか。という男の心は容姿に自信のない女に読まれていた。
容姿の悪い女は心の容姿も悪い。男を呼びつけておいて、食事をおごらせてあげくの果ては金品の請求。殺意もわくというもの。ほとんどが遠方アポの出会い系サイトで男が女を殺す事件の原因はここにあると思う。たまに友達に請われて一緒にテレクラに行くことがある。たとえば池袋のテレクラにいたとして、友達が渋谷にいる女とアポがとれた、とする。俺は「渋谷にもテレクラはたくさんあるじゃない。ということは渋谷のテレクラ男に断られたゴミ女だよ。行っても時間と交通費がムダだよ」と助言するが、ほとんどのヤツは「せっかくとれたのから。それに声もかわいいし」と出かけるのだ。1時間後の結果は俺の言ったとおり。「行かなければよかった」としょんぼりして帰ってくる。その間に俺は近くで会った女とホテルインってわけ。足腰が弱くなったことが幸いした結果である。
今までのアポで遠かったのは、やはり10年前、小田原と高崎である。当時は携帯も普及しておらず、俺も持っていなかった。それでも何か、都会のスレた女でなく、純真な女だろうと想像をたくましくして出かけた。結果は両方ともスッポカシだった。小田原の場合はスカを食らった後、小田急のロマンスカーで1時間チョイだったから救われたものの、高崎の時は金もなく、各駅停車で2時間半ほどゆられて帰ってきた。腹はすく、ムカつきを発散することもできない。あんなイヤな気分はもう味わいたくない。小田原の「ヒトミ」自称20歳の女子大生。高崎の人妻「リエ」31歳。テレクラスカに時効はない。アナルに電気ドリルをぶち込んでやりたい。話を戻して、西川口の和風ピンサロに行ったのも、テレクラがきっかけだった。いつも言っているが俺は都会の女には弱い。東京生まれの東京育ちで私立の学校出、と聞いただけで精神も身体もペニスも萎縮して話もできない。俺自信が埼玉生まれの練馬育ちのうえ、チビデブハゲときている。いやおうもなくコンプレックスを感じてしまう。その点、顔も体もすこしズレている埼玉女には、アナルまで舐めさせる。今でもテレクラで知り合った女には最初に出身地を聞く。東北や北関東だったら勇気百倍。美人だろうとスタイル満点だろうと関係ない。イヤがる女にでもナマのペニスを出して「舐めろよ」と強制できる。その日、西川口で会う約束をした女は栃木出身の30歳の人妻だった。「東京は怖くて行きたくない」というその言葉が俺の嗜虐感を高める。
その女は黒いコートというよりマントみたいな布を着ていた。身長は150センチくらいで顔はといえば樹木稀林。改札を出たデッキの外れに銅像にように立っていた。喰える女拒まず、とはいえ正直迷う。挨拶だけでもと女に近づくと女はニコリと笑顔を返してきた。黄ばんだ、というより茶に染まった歯、それも前歯数本がない。手に持っていたデパートの紙袋にはポケットティシュがこぼれんばかり。「ごめんなさい、また」と頭を下げると「なんだ、このやろう。ざけやがって」と悪態をつかれた。
しかとして改札へ戻ったが、なんだかイヤな気分である。西川口でもあることだし昼間のソープでも行ってみるかとソープ街へ足を向ける。なるべく安い店を探してうろつき総額1万2千円の小さな店へ入る。写真指名はなかった。
出てきたソープ嬢は歳の頃30代半ばのデブババ。部屋に入って風呂を使いイザ本番となってもペニスは勃起しない。フェラされてもそのままだ。その気がないとみるや、ソープババアに「ここはね、するとこなのよ。病気なの?」と言われてそのまま店を出る。