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末森ケン 末森ケンのテレクラ放浪記  [仕事・連載等のご依頼]|[サイトの推薦]

“俺はテレクラ女としかセックスできない”。テレクラの神様。 これはひたすら「テレクラ」という箱に通いつめ、そこにかけてくる女達をホテルに連れ込んで身勝手なセックスをし続ける中年男の記録である。

ガイド記事・コラム

いつもバッグにイソジンウオッシュ 全4ページ     

20代後半からハマったフーゾク。44歳から始めたテレクラ。キス、ナマフェラチオ、クンニリングス、性交を含めて性的接触をした女の数は1800人以上で、移された性的病気は吉原のソープでやられた毛ジラミ1回だけである。あとはオナニー過多が原因の陰茎包皮炎を2回やっただけだ。エイズ騒ぎが始まった10年ほど前からは毎年2回、7月と12月の御中元と御歳暮の時期になると保健所でHIV抗体検査をしている。1度だけ擬陽性がでて慌てて再検査したが結果は陰性だった。

正業の味方、バイアグラ! 全6ページ       

俺が始めて「オトコのクスリ」を飲んだのは今から20年程前の夏だった。不動産バブルが勢いを増して、俺も連日、朝の8時から深夜まで<働いた>。特に営業技術があるわけでもなかったが、取引先を巡れば必ず仕事をもらえた時代。ヘルスが7千円、中クラスのソープでさえ1万5千円で若くてサービスのいい女を買えた時の給料が30万前後だったから昼の仕事も夜の仕事にも励んだ。

 

テレクラ放浪記(1) 全5ページ      

第1回「私がテレクラに通い始めるキッカケとなった女・久美子」
 今から9年前、4月初旬のある日、私は不思議な体験をしてしまった。44歳にして初めて入ったテレホンクラブで31歳の人妻と知り合い、数時間後にはセックスをした。した、というよりその女性に巧妙に誘われて、といったほうがよい。

テレクラ放浪記(2) 全5ページ      

二人目の女・ナオコ
初めて入ったテレクラで出会った人妻・久美子と熱いセックスをした翌日、私は普段よりずっと早い午前6時すぎに目が覚めた。私の連絡先を教えなかったことを後悔して寝つかれなかった。することは考えていた。それは久美子と連絡をとることだった。

テレクラ放浪記(3) 全6ページ       

 8月下旬に初回の失業給付金、19万9千円が振り込まれた。それだけの現金を持っていた時期は珍しかった。サラリーマンの時は連夜、酒かフーゾクにつぎ込んでいたので2週間もするとほとんどなくなり、短期のサラ金か給料の前借りでしのいでいた。

テレクラ放浪記(4) 全8ページ         

初めてのSM経験
 ライターとしての最初の仕事が連載であったことは私にとって幸運だった。
 毎月テーマ別にテレクラを攻略するノウハウと二人の女との情事を書くことによって、それまで脈絡なく書き綴ってきたテレクラレポートとは別に、テレクラとテレクラに出没する女に対する私の頭は整理されていった。

テレクラ放浪記(5) 全9ページ          

 職業としてテレクラ探検人兼フリーライターになったからといって所属事務所があるわけでもなく仕事のノルマもあるわけでもなく、私の生活そのものに変化はなかった。
 朝7時ころ起きて新聞テレビを見ながら食事をして自分の部屋に戻ってタバコを吸って
それからすることは何もなかった。

テレクラ放浪記(6) 全9ページ          

「サラリーマンからテレクラ探検を主とするフリーライターに転職した私は、それまで以上に女とセックスをすることに燃えた。テレクラに出没する女のほとんどはブスブタババアか心のビョーキを持つ女だった。それでもかまわなかった。それらの女の背景にある物語を探索すればするほど性的ボルテージは上がった。〈奇妙な女たち〉の最たるもの。精神病院に入退院する女3人とも知り合った。といっても最初の二人とは肉体関係はなく、軽い被害を受けただけだ。3人目の女とはセックスしてから一騒動あった。そして盲目の女との情事。私の探検は佳境に入りつつある」

テレクラ放浪記(7) 全11ページ           10 11

「40代後半だった私にとって、会えてセックスできる女は援助交際を除いて、何らかの心のビョーキを持つ女たちだった。精神病院に入退院する女はストーカーに変貌した。盲目の女とは、目の見えないことをいいことに徹底的にもてあそんだ。それは健常な女とするセックスより楽しかった。むろん弱い者いじめの快楽である。端的なのがデブである。男から相手にされずに性欲を持て余した彼女たちのセックスは真剣だった。命令すればなんでもした。尻の穴を吸わせもした。彼女たちは嬉々としてそれを受け入れた。ある夏、そんな太った女たちを狙って伝言ダイヤルに挑戦した」

テレクラ放浪記(8) 全8ページ         

「44歳でサラリーマンからテレクラ探検人に転職して3年が過ぎた。援交女子高生、大学生。精神病院を入退院する女たち。盲目の女。娼婦願望の美人人妻。男に相手にされずに性欲を持て余した太った女たち。サラリーマンをしていた頃には出会えなかった特殊な女たちとのセックスに私はのめり込んだ。セックス行為そのものも楽しかったが、彼女らの持つ特異な〈物語〉は私の性欲を倍増した。」

テレクラ放浪記(9) 全13ページ           10 11 12 13

最初の妊娠女・ヒトミ・22歳・妊娠6ヵ月
 セックスするつもりで一緒にホテルへ入った女が妊娠していると知った時は、ビョーキ女には慣れていた私もさすがに考え込んでしまった。

テレクラ放浪記(10) 全8ページ         

「テレクラにかけてくる女は健常者だけではなかった。いつでも、どこからでも無料で電話し放題なテレクラという箱。それは〈外に出たくない事情〉のある女にとっては唯一の避難場所であった。デブ、盲目、精神病者の女たちにも性欲はあった。しかし、現実は健常者の出会いの場しかなかったので、引きこもらざるを得ない。小説、雑誌、テレビなどによってその鬱積は増幅されていった。そして、私と同じようにあるキッカケで彼女たちはテレクラを知る」。

テレクラ放浪記(11) 全7ページ        

「女を選んでいてはヤるどころか会うこともままならないテレクラという出会いの場所、テレクラ。いつしか、ほとんどの女に発情できる体質になっていた。会えた女は片っ端からホテルへ連れ込んだ。盲目の女、片足が不自由な女、余命いくばくもないことを知っている女、妊娠している女、男顔の〈女〉、エトセトラ。彼女たちは私にとって、性欲を惹起させる物語をもっていた。それを他人は「性的弱者の言い訳」だという。どうでもよかった。金もない、車もない、世間事情にはうとい、ましてやチビデブハゲの五十男だ。私が持っているもの、といえば時間だけだ。くやしいがどうにもならない。女に選択権がある生物世界の定理なのだ。選択権を忘れた女にしかすがる道はなかった」

 

フーゾク探検記

フーゾク探検記(1) 全2ページ   

「人前オナニーの生理的解剖学」
“オナニークラブ、オナクラがフーゾクかどうかは議論の別れるところである。たしかに「のぞき部屋」みたいに女の体とは非接触で自分の手で射精するのだから馬鹿らしいという意見はごもっとも。だが、金を払って射精するのだからりっぱなフーゾクである。

フーゾク探検記(2) 全2ページ   

「プロの街、池袋で見つけた まったりヘルス」
 フーゾク情報雑誌のほとんどのページを占めていることからもわかるように、ニッポンの射精フーゾクの代表的なものがヘルスである。受け付けでしかるべき金を払い、サービス嬢と対面し個室に入って、サービス嬢から男心をくすぐる挨拶をされて、シャワールームで体を洗濯してもらって、手や口で男の性感を高めてもらい、最後はやはり手か口に射精する。ソープランドから本番をとって料金を安めに設定したこのヘルスこそ、日常のフーゾクといえる。

フーゾク探検記(3) 全3ページ    

「ピンクの故郷、五反田」
 数あるフーゾクのなかでも射精だけでなく酒がおまけについているのがピンクサロンである。

フーゾク探検記(4) 全3ページ    

「オバチャマの街、巣鴨のお座敷サロンで人妻の口に放出する」
1「彩の国、埼玉の料亭で浴衣姿の女と寝る」
2.「巣鴨で茶屋遊び。気分は大石蔵之助?ってなわけない」



末森ケンこの写真は末森ケン氏の公式お見合い写真である。(コップの中身はただの水)
末森ケンとお見合いをしてみたい・結婚を前提に付き合いたいという奇特な女性がいらっしゃいましたらこちらへ。
末森ケン
(すえもり けん)
  プロフィール:
“俺はテレクラ女としかセックスできない”
ブス・ブタ・ババア、ビョーキ女の集積場、テレクラ。相次ぐテレクラ規制により、事実上その箱は崩壊した。
だが〈戦後〉だというのに、壊れた箱にしがみついて離れない男が いる。彼の名は末森ケン。
55歳独身、身長163センチ体重75キロのチビデブでおまけ に99.999ハゲ。昨年の収入318万の貧乏ライターである。
これはひたすら「テレクラ」という箱に通いつめ、そこにかけてくる女達をホテルに連れ込んで身勝手なセックスをし続ける中年男の記録である。

<御挨拶・経歴・バックグラウンド>

1948年、埼玉の小都市生まれの満55歳。
3流大学を卒業後、生命保険会社、百貨店、不動産関連会社に勤務。44歳の時、中間管理職の末席に座ったが上から下からのサンドイッチ状態にストレスをため、酒と女に逃避。それが元で急性肝炎を発症。
独り身の勝手さから退職。
しばらくは失業保険でブラブラしてみるか、と職安(ハローワーク)に出頭した帰り道、フラリと立ち寄ったテレクラで美人人妻と出会う。
そして誘われるまま熱いセックス。学生時代のナンパ狂い以後は素人とは無縁の日々。20代のころ知ったトルコ(ソープランド)、ピンサロ、ヘルス、池袋の立ちんぼあたりが主。その20数年間で使った金、約3千万。
半分ほどは会社の営業経費をちょろまかしたアブク銭。
 忘れていた素人女とのセックスに開眼してからは、退職金をつぎ込みテレクラへ日参。
しかし、会えるのは最初の女のような美女とはまったく異なる、ブスブタババアばかりか、援交や心のビョーキを持つ女たち。
 ふつうの男ならヤメる。だが、退職金ばかりか失業給付金、果てはカメラ、時計など家財道具を売ってまでしてテレクラ資金とした。
 会った女といえば、寸借詐欺、売春詐欺をする女子高生、行商女、盲目の女、精神病院に入退院を繰り返しながらテレクラに電話する女、片足が不自由な女、余命10年以内の難病にかかりながらも男とのセックスを心のよりどころとする十代の女など、サラリーマン時代にはお目にかからない女たちだった。
金を出せば射精を保証してくれるフーゾクの女にはない物語を彼女たちは持っていた。それが彼の性欲を高めるオカズになっていた。
 いつしか、それにしか発情できない体質になっていた。
女を見下げることでしか性欲を満たせない男。チビデブハゲというコンプレックスを女に吐きつけることによって、ますます自分自信を縛ることになっても、弱い者イジメは止まなかった。
 埼玉生まれの練馬育ち。都会的な今ふうの女の前にでると精神身体が萎縮してマトモに話もできない性的弱者。
恋愛の経験もない。未だにテレクラ以外で知り合った女性とはセックスどころかデートもしたことのない、いや恐怖感が先にたって行動もできない哀れな男。
 彼は言う「テレクラって、電話をかけてきた女に対して優越感が生まれる不思議な場所です。私がかけたわけじゃない。アンタが用あってかけてきたんだろう、って」。
 さらに「テレクラには不思議に作用があります。テレクラ女だからホテルに誘っていいのだ、という性的記号です。その記号は女についてなくともいい。ついているのだ、という思い込みがあればいい。だから私でも誘えるのです」。
つまりはテレクラという性的記号の助力なくして彼の性生活はありえないのだ。
 テレクラで会った女と以後も付き合うことはない。それは対象となった女の物語は1回で終了するからだ。
いわば小説である。同じ小説を読みたいほどの内容をもった女はいない、ということだ。

 前書きが長くなってしまった。もう少し。

 テレクラにハマって1年も過ぎたころ、私は友達のためにテレクラ情報といおうか、どこのテレクラは部屋が汚いとか女子高生が多いとか、自分の体験をもとにテレクラレポートを書きはじめた。B4のレポート用紙にして約90ページの大作である。
 ある時、宝島社の隔週刊「宝島」のテレクラ特集を読んで疑問を持った。あまりにも能天気な内容だった。
すぐにレポートをコピーして編集部に送った。当時、隠れテレクラファンだった編集者I氏の目にとまり、以後テレクラ特集のある度に取材に協力することになる。
そして別冊宝島「メディアで欲情する本」で私の体験談を掲載するにあたってライターK氏を紹介される。
 彼はある編集プロダクションに所属していて、マスコミとの付き合いも多かった。
そのころ、テレクラ強盗が頻発していて、I氏の紹介で週刊Pから、実際のテレクラってどういうシステムなのか、取材された。
その前年のクリスマスに二人組の女子高生に約7万ほどの金品をだまし取られた経験をありのままにしゃべった。
 その記事を見たあるテレビ局から、テレクラ特集の企画があるのでぜひご協力を、と依頼され出演した。
それを見たマスコミから取材の申し込みがあり、話したり文を書いたりした。
 それでもライターというにはほど遠かった。いずれは友達でも頼って就職するつもりでいた。
 I氏の紹介でB社のSというエロ雑誌で私の経験談を連載する話がもちあがり。
私は経験をI氏に話してI氏が書くことになった、それは半年ちかく続いた。
 突然、I氏と連絡がとれなくなった。穴をあけるわけにはいかない。私は初めてライターらしき仕事をすることになる。
「テンポもいいし、読みやすいし、これからもお願いします」と編集長にいわれ、友達から中古のワープロを譲ってもらい、見よう見まねで書いた。あるとき、私の連載が神奈川県の条例にひっかかり中止になった。援交について「おいしい買い方。賢い売り方」というタイトルをつけて、いかに援交女を買いたたくか、いかに男に高く売るかのノウハウを提供したのだから当然である。
 拾ってくれる神がいた。I氏と一緒に〈営業〉に行った三才ブックスから「全国テレクラ楽勝ガイド」を出版するので協力してほしい、と連絡があり、私は多摩地区と水戸のテレクラを取材した。
しばらくたって三才ブックスの裏モノ編集部が独立して「鉄人社」となり「裏モノJAPAN」が創刊される。そして私のライフワークともなるテレクラ女との格闘を描く「喰える女、拒まず」の連載が始まった。
 それ以前にも宝島社から「テレクラ250人斬り日記」という主にテレクラのノウハウと体験談をマンガにしたものを刊行していたが、これはどちらかというと能天気な内容である。
「喰える女、拒まず」は反対に女の持つ物語を主題にしたもので、むろんセックス描写も強いが、ホテルまでの〈流れ〉を重んじている。
 そして「喰える女、拒まず」は2001年5月に単行本として刊行される。
その後、やはり営業をかけた幻冬舎から「テレクラ放浪記」なる仮題で、先の単行本とは違う観点、つまり女に対しての私の心情の変化という主題でアウトロー文庫として原稿を依頼された。
1近くかけてゆっくり書いた。しかし、相次ぐテレクラ規制のため、テレクラはもはや、出会いの場所としての存在価値がなくなったと評価されたのか、編集者からの連絡は途絶えた。
 ボツならボツでもいい。そのまましまっていた。これはその草稿である。これは先の単行本と違って編集者の手は入っていない、100パーセントオリジナルである。がゆえ、誤字脱字や読みにくい点があるやもしれない、前後の整合性が欠けているかもしれない。
まあ、そんな経緯で今回からWEB小説として当マガジンに連載させていただきます。



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