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  テレクラ放浪記(3)-2 Date: 2003-05-12 (Mon) 
末森ケン 沖縄出身の19歳のモデル修行中の女とは3回遊んだ。
キャンペーンギャルといってもいいほどの均整のとれた170センチちかいボディは何回セックスしても飽きないほど優れていた。その子の目的はアメ車を買うことだった。

 銀座の名の知れた化粧品会社の本社で受け付けをしていた22歳の女は何回目かに会った時、3百万ほどの多重債務をかかえ破産寸前であることを話してくれた。
カクテルが好きで、終わったあとは必ずセンター街奥にあるレトロなバーで一緒に飲んだが、居合わす客の男全員が彼女から目を離さなかったほどの美人だった。
渋谷と銀座は近い。人目を避けたいはずなのだが、他の女のようにサングラスをかけるでもなく堂々とホテル街を私と歩いた。理由を聞いても答えなかった。
彼女は、しばらくして滋賀県のソープランドに移ったと聞いた。

 A女子学院大の4回生の女は、当時では珍しくアメリカ留学を目指していた。カリスマファッション誌「JJ」のモデルといっていいほど洗練されていた。彼女の無毛にちかい性器を舌で愛撫すると大きな声をだした。

 現役女子高生2年の子は、流行り始めていたホストクラブの男に入れ揚げるため、アナルも使っていた。興奮すると肛門が開いて便を少したらす癖があった。

 一番印象的だったのはC子。小柄でキュートな女で軽いSMゴッコをしたりして楽しんだ。ゴムが嫌いでいつもナマ出しだった。彼女は私と遊んで数カ月したあと、新宿のホテルで客に絞殺され、新聞と週刊誌で大々的に報道された。

 しかし彼女らはあたりまえだが、私を客以上としては思っていなかった。前述の化粧品会社の美人OLとは3万の報酬の約束で伊豆下田に温泉旅行としゃれこんだ。思うままに楽しんで、彼女も楽しそうだったので、これはもしかして、と感じ「プライベートに付き合いたいんだけど」というと「月20万の愛人なら」とにべもなく断られた。

 例の殺人事件の影響か、その親分から「取り締まりが厳しくなったので、しばらく休業する」といわれ、私はホテトル遊びをやめた。
末森ケン
 安全なフーゾクといえば〈認定された売春〉であるソープランド(当時はトルコと呼ばれていた)きりない。私は接待する時や接待される時を利用して吉原を巡った。

 当時、〈トルコのロジャース〉といわれていたチェーン「E」は安かった。午前9時オープンで、10時まではオール込みで3千5百円。1時間ごとに千円あがるシステムで、正午までは30分。それ以後は60分1万円、夜は1万5千円。初めて午前9時に行った時は、すでに先客が10人ほど店の前で待っていた。

 ほとんどが学生でなかには今でいうホームレスもいた。サービス嬢は人妻ばかりで、結構内容は濃かった。私は、客先へ直行する、と嘘をついて週に2回はセックスつきの朝風呂を楽しんだ。

 お色気接待の時は必ず使った中堅どころのソープ「T」のママとは懇意になり、新人が入店するたびに勤務先に連絡があり、私は新人実技教育係をやった。「オーソドックスなプレイで人あたりがいいから」が理由だった。

 ある年末には「女の子を全部素人に入れ換えたので全員総当たりやってみない。料金は勉強しておくから」と誘われ、想像以上にボーナスが入ったせいもあり、前払いで25万を払い、三週間をかけて16人の初物喰いをやった。

 政治家でもないのにこんなことやっていいのか、と思った。

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