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  テレクラ放浪記(3)-6 Date: 2003-05-12 (Mon) 
 8月半ば、当時サブカルチャーの先駆を旗印にしていた隔週刊誌「宝島」に「隠れた大ブーム“テレクラ”は日本の男女関係を激変させる」と題したテレクラ特集が載っていたのを読んだ。

 テレクラ店の見取り図から、テレクラにかけてくる女の年齢職業別による時間帯や実際の取材体験を含め、かなり子細に分析してあった。ここまでテレクラが注目されているとは思っていなかった。
都会の片隅で行われている、一部の男女のささやかな楽しみくらいにしか感じていなかった。私はその記事を読んで、友達に見せるだけではもったいない、参考にしてもらえるならと、自分の作ったレポートをその編集部に送ることを思い立った。コンビニでコピーをとり、整理して郵送した。

 2週間ほどして編集部から、大変おもしろいので、お話をお伺いしたい、と連絡がきた。
私は喜んで承諾し、池袋の喫茶店で男性の編集者と女性のライターに面会した。話によると、またテレクラ特集をするので、ぜひ協力してほしいとのことだった。
私はそれまでの体験を正直に話した。性的な話を他人とすることはそれまであまり機会がなかったが恥ずかしい気持ちはなかった。それより私の体験が雑誌で取り上げられることへの嬉しさで緊張していた。同席していたもう一人のフリー編集者I氏の本業はロックミュージック批評なのだが、「かくれテレクラマニア」でそれ以後もテレクラ特集があるたびに取材にかこつけ都内のテレクラを一緒に巡った。I氏は私にとって第一番目の恩人となった。

末森ケン 1ヵ月ほどした9月の半ばに発行されたその雑誌に私が協力した記事が載った。「日本テレクラ大調査。『秘密の出会い』はこうして始まる」と題した15ページにもわたる特集だった。私は「練馬のケンちゃん」とペンネームをつけられ、テレクラシステムの解説や、読者とのQ&Aの回答者として参加していた。

 私は有頂天になり、その雑誌を数冊買い友達に送った。

 生まれて初めてもらった取材謝礼5万円はテレクラ4回分で消えた。

 その後、同じ出版社でだしている、別冊宝島からの依頼をうけ、ライターK氏を紹介され、私の体験談を話すことになった。K氏はこの分野の専門ではなかったが、私のテレクラに対する心情を的確につかんでくれた。
「メディアで欲情する本」と題されたそのムックでは「決定版!汗と涙のテレクラ攻略講座」というタイトルで、私の告白の形式をとっていた。副題は「46歳、チビ・デブ・ハゲの私が実体験から会得したテレクラ攻略法。これは『汗と涙とスペルマの記録』だ」。美文であった。K氏は第2番目の恩人になった。

 数カ月後、そのK氏からの紹介で、週刊ポストから取材を受けた。
 都内で2件のテレクラ強盗事件が発生したばかりだった。

 詳しくは覚えていないが、ひとつは、中年の男性が、テレクラで知り合った二人組の女にホテルでスプレーをかけられ現金10数万円を盗られたというものだった。もう一件も同じような事件だったと記憶している。

 それに関連して、私が遭遇した詐欺事件について話が聞きたいという。私は実況検分さながら、その記者と渋谷を歩きながら説明した。それは3ページの記事になった。

 その記事がきっかけでTBSから、テレクラの特集をするので協力してほしい、と連絡があった。それは1時間ほどの情報番組で、その中の30分ほどをつかい、テレクラの現状を報告するというものだ。監修は都立大助教授であり新進気鋭の社会学者であるMS氏。

 初日は池袋のテレクラで実際に女性と話をしている場面を撮られ、次の日は詐欺事件に遭遇した渋谷で私が歩いているシーンを撮影された。私は「女子高生にだまされながらも、テレクラという世界にハマっている中年男」を演じさせられた。撮影中にふと思いつき「私にとってテレクラはパンドラの箱みたいなものですね」といった。それはテロップで流された。テレクラ川柳「なけなしのトラの子抱いてテレクラ通い」も画面にでてきておかしかった。

 テレビや週刊誌の影響は考える以上だった。
男性用娯楽誌やエロ系のグラビア誌などからの取材がくるようになった。そのひとつの理由にテレクラ取材には時間がかかることがある。丸一日つぶして取材をしても女と会える保証はない。会えたとしてもホテルへ行けるかもまったくわからない。それだったら1年以上通っている私に話を聞いたほうがてっとり早い。そんなわけで各種の媒体から取材を受けはじめた。相変わらず宝島誌からもテレクラ関係の企画があるたび、呼び出された。

 そのころ、K氏の紹介で、コアマガジン社の人妻系の雑誌から連載を依頼された。

 テレクラ攻略法と、知り合った女とのセックス場面について私が資料を出して、K氏が書く手筈で進められた。数回連載してK氏が他の仕事で多忙になり、編集者から、代わりに私に執筆してほしいといってきた。それまではインタビユーを受けるのが主で、せいぜい原稿用紙2.3枚の文しか書いていなかった。それをいうと、試しに書いてみて下さいと懇願された。私は友人に譲ってもらった旧式のワープロを取り出し、できるだけ忠実に、なお読みやすいように短文を繋ぐような形式で原稿を作成した。

 原稿用紙(200字詰)15枚分、3千文字を完成するのに1週間かかった。不安だったが、返事はあっけないものだった。「リズムもいいし、わかりやすい。これでいきましょう」

 そのころは名刺もなく、年賀状に使う住所印を名刺用紙に押していたものを使っていた。この一言に勇気づけられ私は軽印刷で名刺を作った。「テレクラ探検人・ライター・末森ケン」。一年後、女性とのセックスシーンの写真、いわゆるハメ撮りを始めた時、肩書に「エッチ系特殊写真家」を加えた。

 名刺とは不思議なもので、私はいっぱしの著述家になった気分だった。古本屋に行けば「文章読本」のたぐいを買いあさった。しかし、なにかピンとこず、ベッドの横に積み重ねたままで終わった。

 編集者や取材で知り合ったライターからは「この分野に手をつけている人は少ないからぜひ続けて下さい」といわれ、私は失職後初めて「職業」を認定され、気が高揚した。

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