■ テレクラ放浪記(9)-7 | Date: 2004-01-06 (Tue) |
店員の説明を聞きながら私はそのとおりに1秒くらいの間隔でフックを押したり上げたりして〈偶然の赤い糸〉を待った。ほどなくして「カチッ」と音がして緑のランプがついた。
「何歳?」と声の主はいった。
「はい、46歳です」と2歳のサバをよんだ。
「こっちの人じゃなさそうね」といったので、つい「東京です」と答えた。
「何しにきたん」と若い声。
「実は取材で」といったとたん電話は切れた。このくらいは慣れている。
私は早取りの面白さにひかれていった。雑誌も読めない、タバコもおちおち吸ってはいられない。だが、フックを慎重に上げ下げしている感じが緊張していて、楽しかった。その緊張感が疲れに変わるまでは。
次々とコールが繋がった。だが「取材で」というと切られてしまった。
ある女は「そんなこと言って、だましやろ」といった。今回はいつもと違って一流の週刊誌なので、だまして遊ぶわけにはいかない。私はそれ以降も正直に東京の言葉で取材の趣旨をいって相手の反応を待った。
一概には言えないが、大阪のテレクラ女は話が早かった。
「あんたのアソコ大きいんか?」「いや、ふつうですよ」「ガチャッ」。
「今まで、何人とやった?」「20人くらいですか」「もっと遊ばんとダメや。じゃあ」。
からかわれているばかりで仕事は進まなかった。それでも10人に一人くらいの割合でアンケートに答えてくれた。
それまでも、遊んだ人妻にはそれとなく夫との性生活のことやセックス嗜好について聞いてはいたが、全員に同じことを聞いて統計をとったことはない。これが本当の取材なのだ、と緊張した。
電話の魔力といえばいいのか、調査に協力してくれた人妻は、好きな体位、性交頻度、避妊方法、性感帯、浮気の経験、その時の気分など、聞いてもいないことまで答えてくれた。
その日の午後5時には4人分の調査票ができあがっていた。
SM指向のある36歳、毎日ここのテレクラにかけて、週1回は遊んでいる20代後半の自称美人、3Pでないと燃えないという過激な35歳。ここのテレクラにくるお笑い系タレントを専門に漁る30歳は「朝のテレビにでるあの○○って、実はヅラなのよ。それにエムだし」とそのタレントとのセックスについて長々と話してくれた。テープレコーダーを用意してくればよかったと後悔した。
初めての遠隔地取材に私は疲れていた。
午後6時にはその店をでて居酒屋を探した。
偶然見つけた「タコ寿」というテント張りの酒場で食べた「アンキモ」は東京の3倍もある塊で、さらに赤身のマグロも分厚くきってあり、それまで大阪で飲んだ経験のなかった私はおかわりを頼んで腹いっぱいそれだけを食べた。チューハイは東京と変わりなかった。宿泊先のビジネスホテルで翌日の8時まで目が覚めなかった。
翌日朝8時45分にテレクラにいくと責任者が「今日はぜひ遊んでください。お客も少なめですから」という。
「アンケートだけですから」と答えた。個室に入って昨日と同じようにフック連打を始めた。
二人目のアンケートを終えた午前11ごろ、37歳の主婦と繋がった。
「アンケートもいいけど、家に来れば?」と唐突に言われた。H電鉄のS駅の近くだという。
そこは関西オンチの私でも知っている高級住宅地だ。神戸で貿易会社を営んでいた叔父が住んでいて、今から40数年前、小学生低学年のとき夏休みに家族で2回行ったことがある。
当時埼玉の田舎にいて粉末のインスタントジュースきり知らなかった私は、本物のオレンジの味を初体験した。
インスタントコーヒーでさえ珍しかったのに、朝食はドリップコーヒーと外国製のトースターで焼いたトーストにフライドエッグ。エルビーという乳酸菌飲料も初めて飲んだ。
コッペパン以外知らなかった子供の私には別世界の1週間だった。
豚肉でさえコマ切れが主流だった私にとって大きな牛肉の入ったビーフシチューは驚きで「おみやげに持って帰ろう」と言って笑われたらしい。
東海道線は全線電化していなかった時代で、途中の数時間は蒸気機関車だった。叔父夫婦の寝室には大きなベッドが一つあった。その窓からは遠くに丘のような山々が見えた記憶があった。